なぜ礼拝でダンスすることが大切なのでしょうか?多くのアメリカやアジアの教会は礼拝でダンスをしません。アフリカやラテンアメリカ系の教会でダンスはあたりまえです。エチオピアでは自由奔放に表現力たっぷりに礼拝し、1時間もダンスし続けます。もしアメリカ人やアジア人がこれらの国々で礼拝中にただ座っていたら、とても場違いに感じることでしょう。すべての文化圏でダンスは日常的なことなのに、ほとんどの教会ではダンスしません。

聖書では、ダンスがあたりまえのように記されています。

出エジプト記15:20には、モーセの妹、女預言者ミリアムのダンスが記されています。「アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。」

また詩篇 149:3には「踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。」とあり

さらにサムエル記 第二6:14には「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。」とあります。

教会はダンスの先駆者であるはずなのに、現在は世の中がダンス文化を先導しています。

マタイの福音書11:17でイエスは言いました。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。」

エペソ人への手紙5:18-19には、「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と記されています。ギリシャ原語の「メロディー」の意味は「Twitch/英(落ち着きがない・ぴくぴく動く)」そして「Twang/英(びーんと鳴る, 鼻にかかる音)」で、この単語は「ダンス」とも訳せます。

また、英語の聖書のProchorus (Deacon) は初期教会でキリスト教徒の執事、助祭を指していますが、その由来は「ダンスを導く人。」からです。(使徒の働き6:5)

さらに神もダンスをするという記述が聖書にあります。 ゼパニア書3:17には「彼はあなたのために喜び楽しみ(Rejoice)」と記されていて、Rejoice の原語は「喜び溢れたダンス、スキップ、ジャンプ、回転。」とも訳されます。 もし神ご自身が踊られるのなら、なぜ教会では踊らないのでしょうか?

教会の歴史とダンス

数世紀の間、欧米の教会は、神はダンスしないと思い込んでいました。 聖書翻訳の過程で多くの「ダンス」という意味合いの原語が、「賛美(Praise)」という単語に置き替えられてしまったからです。 ダンスは感情的すぎて神聖でなく物質的だとも解釈されてしまいました。 どんな理由であれ教会で踊るのは不適切に考えられ、時には禁じられたりもしました。 聖書の歴史からダンスが取り除かれてしまい、ダンスなしの教会史に置き換えられてしまいました。教会にダンスを取り戻すことは、聖書の概念と神に与えられた人間本来の表現能力を復元することになるでしょう。

ルカの福音書15:25では「音楽や踊りの音が聞こえて来た。」ので、長男が放蕩する弟に嫉妬したと記されています。 今日、教会は分割されていて、一緒に宴会をするよりも違いを強調してしまっています。

日本と踊り

日本には長い踊りの歴史があります。 数世紀の間、仏神教徒は日本の踊りの心を持ち続けてきました。 例えば、阿波踊りのお祭りは毎年8月に130万人の訪問者を引き寄せます。 阿波踊りは仏教の歴史にその根源を持ち、親族を訪問する祖先の霊を祝福するために行われてきました。

阿波踊りは「踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らな損。」という掛け声で踊られます。これは「踊る人は阿呆であり、見る人も阿呆である。両方阿呆なのなら、なぜ踊らない?」という意味であり、この掛け声は抑制ではなく自由を体験する事の大切さを表わしています。またこれは、マタイの福音書11:17でイエスが尋ねられたメッセージと同じです。「君たち(教会)は、なぜダンスしないのか?」

近年、日本人とユダヤ人のルーツの関連性を示す研究がなされています。ユダヤ人と日本人の間には、多くの類似点が見られます。興味深い関係性の一つは、ダビデ王のダンスと阿波踊りです。(サムエル記 第二6:14)。阿波踊りの「アワ/Awa/וּמֵעַוָּ֤א/Avva」という言葉は(バビロン)捕囚のことが記されている列王記第二17:24に出てきます。

もしかしたら、阿波踊りはユダヤ人のルーツを持っていて、仏教徒がその古代ダンスを単に模倣しただけであるかもしれません。もしそれが真実なのだとしたら、それは日本の教会にとって非常に大きな意味を持つことになるでしょう。 私達キリスト教会の方が仏教徒より先に、阿波踊りの精神を教会に持ち込んでいたとしたら、どうなっていたでしょうか?毎年130万人もの人々が、私達の全能の主、王の王を祝福するダンスのために集まる様子を想像してみてください。

日本のサッカーや野球では、ダンスの心が試合の間中、垣間見られます。各回、人々は歌ったり、手を挙げたり、手をたたいたりして応援します。また、得点時には立ち上がり、跳び、タオルを振って歌ったりします。 その様子はまるで一丸になった大きなダンス会場のようです。

2012年より日本政府は、ダンスを中学校の必修科目にし、フォークダンスか創造ダンス、またはストリートダンスを学ぶことを義務付けました。そして、ダンスの目的を、仲間とのコミュニケーションと喜び(JOY)の共有としています。また、日本政府はダンスは、喜びの表現を伸ばすことに有効だと解釈しています。

神は、スポーツファンや政府や仏教徒等、ある一つの団体がダンスを独占する事を意図しませんでした。日本のキリスト教会もダンスで神を賛美する神の権利と権限を持っています。神は私達が神に向かって賛美する創造的な表現方法として人類にダンスする能力を与えられました。

ダンスの目的

ダンスは、神聖な聖書的表現であり、クリスチャンには欠かせないものだと信じます。

ダンスは礼拝です。聖書を深く読み解くと、ダンスは身体的、霊的でまた神聖であると示されています。私たちは神の前に全身全霊、生けるささげものとして霊的な礼拝を行います。 (ローマ人への手紙12:1)礼拝とは、私たちの声と身体で神を賛美することです。

ダンスはアダムとエバが堕落する前の自由を復元します。人類が堕ちた時、人々は知識の木の精神に支配されてしまいました。イエスが十字架上で死なれた後、イエスは私たちの内に働く聖霊を与え、聖霊に満たされ、喜びで自由にされるように私たちを解放されました。ダンスは私たちを伝統、抑制、理性的制限、合理的制限、および物理的制限から解き放ち、躍動する事を可能にします。

ダンスは神に喜びをもたらします。喜びで踊る子供達を見る親のように、天の父は彼の子供達のダンスを喜びます。神は私たちを小さな子供のようであるようにと 呼んでいます。(マタイの福音書18:3)

ダンスは霊的戦いです。多くの場合、ダンスは勝利後におこなわれます。しかし、私達が現在および未来の戦いにおいて、すでに神が勝利を与えていると宣言する時、預言的、先制的勝利のダンスになります。

あるアメリカの高校フットボールチームが自分達よりも強いとされている相手に直面しました。 ハーフタイムで20ポイント差。彼らが普段は静かなロッカールームで、ボリュームを上げて音楽を流した時、休息と戦略会議の時間がチームの歓びのダンスの時間に変わりました。 ハーフタイムの間中、選手達はロッカーを叩き、 勝利の喜びによって驚喜的に歓声をあげ、一度も踊ったことのなかった選手も激しく踊りました。 その結果、チームは勝利し、再び歓喜のお祝いをすることができました。

聖書においても、ダビデ王が激しく踊ったのは、エルサレムに契約の箱が到着した からというより、その瞬間の期待感があまりにも大きかったからでした。

ダンスは 神と親密さを深める方向へと導きます。時の初めより踊ってきた天の御使いたちに参加するのです。神と共に踊ることは神の鼓動を感じ、引き裂かれた天幕のカーテンを通り抜け、神の臨在を感じるという事です。

ダンスは喜びを開放します。落ち込んでいたり否定的な態度で踊ることは不可能で、 ダンスは参加者の表情を喜びに変化させます。

神がダンスパートナーを求めているので踊ります。(ゼパニヤ書3:17)には、神が踊っていると記されています。神が踊るので、あなたも一緒に踊るようにと声をかけます。あなたが踊れない時、神はあなたが彼の足を踏む事も許され、リードしてくださいます。

共同体(集合体)のダンス

踊りは礼拝における共同体を形成します。 共同体のダンスは神の喜びと希望を増し加えます。共同体には、一人の時よりもより大きな神の恵みが注がれます。教会における共同ダンスは、領域を支配する霊的呪縛を打ち破ることができます。

イエスは、教会全体が一つであるようにと言われ、花嫁である教会に挨拶するため再臨されます。彼の花嫁、教会の共同体ダンスは、結婚の晩餐、先制勝利のお祝いです。

まとめ

ダンスは聖書的です。ダンスしましょう。 我々はダンスするために創造されたのです。ダンスしましょう。 神がダンスしています。私達もダンスしましょう!


この記事は、ホワイトブレント、カスマン典子、立山佳代と本田ジョンの協力により、日野デビッドが書きました。日本語の翻訳はカスマン典子。聖句の引用は新改約聖書からです。

Categories: Worship

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